日本晴れ。一点の曇りもない、快晴。
今日から世界自殺予防週間が始まるそうだ。
自殺者の多くが、鬱状態に陥っていたということを思えば、鬱病を患う俺にも身近なことである。
俺は気づくと「死」について考えている。「死」に関する単語が頭の中に浮かんでは消え続けることがある。
俺が死んだら・・・・。
俺が死ぬとしたら、それはいつなのか?
どのようになのか?
多くの人が自分の死について日常考えることがない、とするならば、俺の状態は普通ではないのかもしれない。
だが、「死」について考えるということは「死にたい」ということとは違う。
俺は自殺はしないのではないかと思う。
なぜなら面倒だからである。ただ、その一点だけである。だから、俺は死にたくなったら寝に逃げることを繰り返している。俺にとって、寝ることは小さな死とも考えられる。
まだ「生」への欲求が極めて低い状態であるとも考えられる。
正直、ひょいと隣町へでも出かけるように、あの世へ行けそうな気になることがよくある。焦る。
それとも・・・「死」について考え煩悶するのは、「生」に執着しようとする気持ちの裏返しなのだろうか?
やさしい妻がいて、かわいい盛りの娘がいる。新築の家に住み、社会的立場の高いとされる職業につき、経済的に困窮しているわけでもない。
何が不満なのかと、贅沢だと、思われても仕方のない悩みである。
でも、覗き込む淵の底は暗く底知れず、何かが苦しげに蠢いているのがおぼろげに見とれるのだ。こんなものに気づかずにいたかった。
気づいてしまった今は、ぼんやりしているとすぐにそれは、俺の心のはざまに忍び込み、おぞましい姿を曝している。
とても切ない。
仕事が始まって、それに一生懸命である。職場にいるのは嫌ではない。忙しく、仕事のことだけを考えていられる環境は、むしろ救いである。
しかし、家に帰るとき、家に帰って一息ついたときが、いけない。どうっと疲れが出る。
何もしたくなくなる自分が嫌である。
賑やかに語りかける家族が煩わしかったり。妻の話を聞きたいと思い、娘の話を聞いてやらねばと思うのだが、どうもうまくいかない。話したり聞いたりする容量は職場で使い果たしてきている、とでもいうように。
仕事と家庭の両立はなかなかに困難である、ということか。
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